目が見えないことと 耳が聞こえないこと
- 2019/10/17
- 12:00
ただ一つだけ感覚を返してもらえるなら、聴覚を返して欲しい・・・Helen Keller
ヘレンケラーは、このように述べたと言われています。
しかし、実は、ヘレンケラーが、明確にはっきりと、このように発言したという
記録はありません。
彼女が残した数々の言葉から、後の世の人々が
「彼女は、こう思っていたに違いない」
と考え、それが、ヘレンケラーの言葉(考え)として知られていったというのが、
どうやら真実のようです。
彼女は、自分の持つ障害を決して悲観的には捉えておらず、
とても前向きに生きた女性です。
類まれな才能と努力で、大人になるまでに、かなりのレベルのコミュニケーション
能力も獲得しています。
ですから、そんな彼女が「返して欲しい」という、一見、ネガティブにも思えるような
考えを持っていたかどうかは、実に疑問が残るところなのです。
しかし、
ヘレンケラーが、自分の盲(目が見えない)と聾(耳が聞こえない)について、
聾の方がより大きな損失である
と考えていたことは、間違いのない事実です。

例えば、彼女は1910年に手紙で次のように書いています。
「耳が聞こえないことは、目が見えないことよりも、より痛切で、より
複雑なことです。聾は盲目より不運なことです。なぜなら、それは、最も重要な
致命的刺激を失うことを意味しているからです。つまり、言語をもたらし、思考を
活性化し、人間同士の知的交際を可能にするのに欠かせない、声という最も重要
な音刺激を失うことになるからです。」
目が見えないことと、耳が聞こえないこと。
これらの“つらさ”を比較することは、とても不毛な行為で、ひょっとしたら、そういった
障害をお持ちの方々に対しては、こういう比較をすること自体が失礼なのかもしれません。
では、なぜ、ここで、あえてこういう話をするのかと言うと、それは現代社会に生きる
我々が、人生においての“聞くこと、聴くこと“の意味を忘れかけているように思える
からです。
以前に、当ブログの中で、
「現代社会は、たいした情報を得ることが出来ない視覚という感覚に、無理やり
過多な情報を押し込んでいる」
と書きました。
そうなんです。
今は、様々なメディアを通して、視覚経由でとても多くの情報が流れ込んで来るのです。
だとすると、ヘレンケラーが生きた時代に比べ、現代に生きる我々にとっては、
聴覚の必要性というのは、格段に落ちている(ヘレンケラーの時代に比べて、耳が聞こえ
ないということが、そんなに大きな問題では無くなっているのではないか?)という考え方も
出来るのかもしれません。
だが、待てよ。
それで話を終わりにしていいの?
人間が本当に必要としている感覚(五感刺激)とは?
現代社会は、それに逆らって形成されているのでは?
あとは、皆さんに考えて頂きましょう。
ビジネスに、生活に、何か新たなヒントを見つけられるかもしれませんよ。
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ヘレンケラーは、このように述べたと言われています。
しかし、実は、ヘレンケラーが、明確にはっきりと、このように発言したという
記録はありません。
彼女が残した数々の言葉から、後の世の人々が
「彼女は、こう思っていたに違いない」
と考え、それが、ヘレンケラーの言葉(考え)として知られていったというのが、
どうやら真実のようです。
彼女は、自分の持つ障害を決して悲観的には捉えておらず、
とても前向きに生きた女性です。
類まれな才能と努力で、大人になるまでに、かなりのレベルのコミュニケーション
能力も獲得しています。
ですから、そんな彼女が「返して欲しい」という、一見、ネガティブにも思えるような
考えを持っていたかどうかは、実に疑問が残るところなのです。
しかし、
ヘレンケラーが、自分の盲(目が見えない)と聾(耳が聞こえない)について、
聾の方がより大きな損失である
と考えていたことは、間違いのない事実です。

例えば、彼女は1910年に手紙で次のように書いています。
「耳が聞こえないことは、目が見えないことよりも、より痛切で、より
複雑なことです。聾は盲目より不運なことです。なぜなら、それは、最も重要な
致命的刺激を失うことを意味しているからです。つまり、言語をもたらし、思考を
活性化し、人間同士の知的交際を可能にするのに欠かせない、声という最も重要
な音刺激を失うことになるからです。」
目が見えないことと、耳が聞こえないこと。
これらの“つらさ”を比較することは、とても不毛な行為で、ひょっとしたら、そういった
障害をお持ちの方々に対しては、こういう比較をすること自体が失礼なのかもしれません。
では、なぜ、ここで、あえてこういう話をするのかと言うと、それは現代社会に生きる
我々が、人生においての“聞くこと、聴くこと“の意味を忘れかけているように思える
からです。
以前に、当ブログの中で、
「現代社会は、たいした情報を得ることが出来ない視覚という感覚に、無理やり
過多な情報を押し込んでいる」
と書きました。
そうなんです。
今は、様々なメディアを通して、視覚経由でとても多くの情報が流れ込んで来るのです。
だとすると、ヘレンケラーが生きた時代に比べ、現代に生きる我々にとっては、
聴覚の必要性というのは、格段に落ちている(ヘレンケラーの時代に比べて、耳が聞こえ
ないということが、そんなに大きな問題では無くなっているのではないか?)という考え方も
出来るのかもしれません。
だが、待てよ。
それで話を終わりにしていいの?
人間が本当に必要としている感覚(五感刺激)とは?
現代社会は、それに逆らって形成されているのでは?
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